すずめの戸締り ネタバレあり感想

ネタバレありです、ご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、言いたいのがぼろっぼろ泣きました。

 

涙もろくはなっているでしょう。が、今「君の名は」や「天気の子」を見て泣くこともないでしょう。

 

新海誠作品でこんなに泣くと思いませんでした。

 

とりあえず、ここからは泣いたシーンを羅列していこうと思います。

 

まずは愛媛に行って、土砂崩れで廃墟になってしまった集落で戸締りしたシーン。

 

戸締りするためには、その場所にいた人たちを想いながら、鍵を閉めなくてはならない。(ちょっと記憶があいまい。間違っていたらすみません)

 

その時に、住んでいた人たちの声や風景が浮かび上がるんですが、そこでウッとなりました。

 

厳密には泣いてはいなかったのですが。忘れられた過去に、確かにそこには生活があって、すずめやそうたさんが思いをは馳せることで、一瞬よみがえるような、あるいは目覚めたような。それは廃墟に限らず、誰か人であったり、みんなが楽しんでいたアニメや漫画、ゲームなんかでも同じことで、なんだか胸が締め付けられました。

 

次に愛媛から神戸に向かわなければならなくなったシーン。

 

ヒッチハイクを試みるが、四国の端っこから神戸にむかう車はなかなかおらず、苦戦。

 

急に雨が降り出し、バスが来ないバス停へ駆け込み、雨宿りをしていると、一度通り過ぎた車がバックで引き返してくる。

 

乗っていた女性が子供を連れて実家から神戸へ帰るとこだったという、見方によればご都合主義展開ですが、別にあり得ない話でもなくないですよね。

 

しっかり神戸弁で話していて、子供を叱るところや「めっちゃ見てるわぁ・・・」というセリフもリアルすぎて、自分が助けてもらっているような感覚になって目頭が熱くなりました。

 

この前の愛媛の時点で、すずめたちは直前で出会った女の子に助けてもらっていて、日も暮れてどうしようかというところへお風呂や食事や服も貸してもらったりします。

 

女の子とその家族の描写や、すずめと仲を深めるシーンなど、助けの手を差し伸べてくれる人たちがリアルに描かれすぎていて、物語の登場人物というより本当に実在する人たちのように感じられるんですよね。

 

次に、芹沢のアルファロメオですずめの故郷へ行くシーン。

 

SAで休憩しているシーンで、車に残っていたすずめにたまきさんが家を出た理由を改めて聞きますが、すずめがうまく言えないと説明を放棄します。

 

たまきさんはここで怒ってすずめを東京に連れて帰ろうとしますが、口喧嘩になってしまい、すずめがたまきさんの心配を「重い」と言い放ってしまいます。

 

直後のたまきさんの表情や声優さんの演技がまたものすごくリアルでつらくなってしまいました。

 

そしてたまきさんも溜め込んでいた思いを吐き出してしまいます。

 

あんまりにも激重な発言でしたが、サダイジンが登場し、直後に発言を後悔して泣き出すたまきさんの描写があり、安心しました。あと芹沢がいてくれて助かった。

こういう気持ちのすれ違いは見ていて本当に辛いです。

 

次にたまきさんのチャリにニケツして家へ向かうシーンです。

 

言ったことは心の中にあることだけど、それだけじゃないよってすずめに話すシーンでぼろぼろ泣きました。

 

人間関係ってそういうものなんですよね、すべてを受け入れることはできないけど、それを超えて思いやることができるのが人間なんだと思います。

 

次に常世へすずめが行ってからのシーン。

 

要石になったそうたさんを戻して、もう一度封印を試みるときに、いろんな「行ってきます」が出てきたシーンで感情が崩壊しました。

 

死はすぐそばにある、だれがいつ死んでもおかしくない。それでも私たちは生きていたい。

 

今日行ってきますと出ていった人が、二度と帰ってこないかもしれない。

 

これは、なんら特別な話ではなく、全ての人にあるリアルなんだと。

 

東日本大震災は正直言って、被災地に知り合いもいない僕にとっては、遠い世界の出来事のようで、いまひとつ自分に置き換えて考えることができてなかったように感じます。

 

この映画を通して、初めて少しは自分のこととして捉えられたのかなと思います。

 

だからこそ、僕はこのシーンで涙を流したんだと思います。

 

ここからクレジットまで必死に涙をこらえてました。

 

冒頭で出てきたおかあさんを探す幼少期のすずめの声が、どんな気持ちで叫んでいたのかわかり、そして周りの大人たちのあやまる声が、胸に刺さって涙が止まりませんでした。

 

そして、高校生のすずめが幼少期のすずめに声を掛けます。

 

「すずめはちゃんと大きくなれるよ」

 

常世に母親がいて声をかけるのではなく、生き延びた自分自身が話す。

 

死んだ人はもう戻らない。それでも、前を向いて生き続けること。

 

それを伝えるために、母親は登場させなかったのでしょう。

 

そしてエンディングへ、助けてもらった家をめぐりながら宮崎へ帰ります。

 

見ず知らずの人でも助けられる人の温かさ。映画の中の人たちが現実ではありえないほど優しいなんてことはなくて、実際に震災があった直後、近隣住民同士で助け合ったという話はたくさん聞きます。震災に限らずとも、日常生活の中で、知らない人が落とし物を拾ってくれたり、電車の中で鼻血を出していたらティッシュをくれたり、道を聞くことだってあります。知らない人だけじゃないですね。仕事で困ったときに上司や同僚が助けてくれたり、友人や兄弟、家族に支えられて今日まで生きています。当たり前のことを当たり前に思わないよう、胸に抱いて生きていきたいと思いました。

 

泣けたシーン上げ連ねただけでボリュームがとんでもないことになったので、ひとまずここで区切ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリップした話

トリップというのはいわゆる麻薬とかヤッたときの幻覚状態のことを言うんですが。

今日、伊丹市の天神川という川沿いを歩いてるときにトリップした訳ですはい。

意味がわからないですね。まず僕の言うトリップっていうのは完全なる現実逃避のことを言います。限りなくリアルに非現実にいると錯覚するという感じですね。

これまでそれに近いこととして、知らない町を歩いて、自分がここに住んでて今は帰り道だと仮定して景色を見る。というようなことはしたことがあります。ですがこれは錯覚するというよりは実際にここに住んでる人の気持ちになってみるとかその程度のもので、あくまで視点を変えて景色を見るという言い方がしっくりくるようなものでした。

しかし、今回のそれは常軌を逸したものでした。まず第一に完全な錯覚に陥ることができたということです。ほんの5分いや、実は1分にも満たない時間だったのかもしれませんが、現実を忘れ去れたのです。共有しやすい例えとしては、夢の中の架空の街に来たような感覚です。

そして第二に心地よさです。天国があればこんな気持ちでいられる場所なんだろうなと本気で思えました。思わず涙が出るかと思いました。

精神状態がおかしいんじゃねぇの?と思われそうですが、実際ちょっとおかしいかもしれません。と言ってもそんな病んでるとかはないのでご心配なく。ただ単純に僕はいい夢が好きなんですよね。

夢で見る街って僕は基本的に架空なんですよね。夢の中にしかない架空の街なんてものはそれはもう完全に非現実なものなわけで、現実でもそれをすこーしだけ感じたくて知らない街を散歩するのですよね。それって現実が見たくないもので必死に逃げようとしてるってことなので、まぁ精神状態はちょっとよろしくないのかもしれません。

それはさておき、ここからは論理的に僕がトリップできた理由を考えてみようと思います。

 

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まず天神川沿いってどんな場所かというとこんな場所です。この写真でもチラリと見えてますが川ではありますが水は一切流れておりません。子供たちが中で遊んでいたりしました。

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こんな感じで草も生い茂っており、かなり長い間水が流れていないんでしょうね。

自分自身ここには初めて来ました。とても風が心地よく。また気温も少し暑いかなという感じで自分好みでした。

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道自体はあまり広いわけでもなく、人がすれ違うくらいなら問題ないですがチャリンコ同士だと少し気を使うかなという幅でした。

 

ではトリップの要因として考えられることを挙げていきましょう。

まずひとつ、既に書いてますが気温や風といった体で感じる心地よさです。

風がめちゃくちゃ気持ちよかったんですよね。強めに吹いてましたが、少し暑い日差しに対してものすごくちょうど良かった。

この心地の良さによりテンションがハイになり、トリップに近づいたのではないかと考えています。

 

そして次ですが、その時聞いていた音楽です。

starry skyという曲を聴いていました。僕の超お気に入りの曲で、空を浮くようなイメージを持ちながらいつも聴いている曲なので、自ずと視点が上向きになります。これもかなり響いたのではないかと考えています。そして空を見るということも大事です。

https://youtu.be/1GYo6aLUmAU

 

次の要因ですが、空です。

この天神川沿は周りに立つ建物の背が低く尚且つ、視界を塞ぐ柵や植物もトリップしたあたりでは存在せず、とても空が高く広く見えました。天気も良く、雲はまばらに浮いてはいますが青空がしっかり見えていて、夏の装いであったためノスタルジックな感情が引き出された部分が大きいものと考えています。

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このストリートビューの写真はトリップした地点の手前になりますが、ここに来るまでは左手に何らかの植物が伸び上がって視界に被っていましたがここに来て、植物類はなくなり、家々も下がった土地に建てられていたりと視界が広くなります。

 

そして次に考えられるのは、天神川沿にある建物や人々の非現実感、エモさです。

エモいという言葉は正式な定義がないので説明の場では適切ではないのですが、きっと伝わると信じて使用します。一体何がエモいのか、それは色々な部分にありまずは民家にあった鯉のぼり

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写真では分かりづらいですが、この鯉のぼりはかなり大きなもので、民家の大きな庭のど真ん中にポールを立て、そこに設置しているような形でした。(横からロープによる固定もなされていた)このデカすぎる鯉のぼりのインパクトからくる非現実感。

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ストリートビューから写真を借りますが、こちらの民家は左からの道とのt字路の角に構えている家ですが、柵がなく植えた木などの植物が柵がわりになり、もはや犬のフンの注意看板すら木にかけているという状態です。面白すぎる。

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そしてこれが引き金になったスピーカーのついた電柱です。これはおそらくスピーカーのためだけの柱と思われます。このエモさです。

この違和感や非合理的な状況ではありながら、行き交う人はたくさんいました。ウォーキング中の老人や、ロードバイクで走る人、遊ぶ子供たち、元気に走る子供とその親。幸せそうな人ばかりが目につき、僕自身も多幸感に包まれていました。

 

このスピーカー電柱を見た時の僕の視点としてはこちらが近いものになります。f:id:kotatsu37:20220529032635j:image

このようにスピーカーと空のみが写っているような形で、なにかノスタルジックな雰囲気で、世界の隅っこにいるかのような感じがして、でも人はたくさんいて心地がいい。

 

気づけば僕はトリップしていました。

本当に気持ちの良い瞬間で、いろんな重圧から解放されて、震えました。

 

トリップなんて書き方をしてきましたが、この場所に僕は心の底から感動したんでしょうね。

 

こんな話が他にあるのか分かりませんが、なんとなく見てみたいと思う方は天神川沿を歩いてみるといいかも知れません。

天気の子ネタバレあり感想

ネタバレ、します

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは見る前にネット上の感想が割れてて友人とあーだこーだ言ってたんですが、ぼくが気になってたのは昔の新海誠らしいという話で、先に見た友人がハッピーエンドと言ってたので恐らくこれはどこ目線で結末を見るのかという話なのかなと、適当にあたりをつけたりつけてなかったりして今日見に行きました。

ぼくとしてはまあハッピーエンドかなと、描写の中では死人はないし、さすがに家屋が水の底に沈んだら被害はでかいですが、雨なのでもの逃すくらいはできますし、大変でしょうけど。

作中の人たちも適応してるんですよね、生活の形を変えて、つまりは自分のために何かを選択したら誰かの生活を変えたり、迷惑かけたりするけどそれが当たり前で、気にすることじゃないと、そういう話なのかなと思います。

ま、現実世界で何をどう選択したって東京が沈むことはないので、あなたたちが生きる世界で選択肢を選んで起きる事象なんてそんな大きいもんじゃないと、そう言ってるのかなぁと。

 

作中の須賀さんのセリフに、1人の犠牲で天気が戻るなら大歓迎、誰だってそうだろう?(ちょっと違うかも)というものがあって、その考えだった須賀さんが最後動いたのは、自分のための自分の部分に彼らが入ったからだと思うんですよね。優しい人は自分のための自分の部分が広い人、これはぼくの考えですが。

 

 

そして、暗いメッセージがあるのではとツイートしましたが、これはまぁ同じことでなんです。

自分のための自分の部分が狭い人もたくさんいます。ゴミをポイ捨てする人、車に乗ってて人に道を譲れない人、社員の給与をいつまでたっても上げない人、トイレットペーパーを使い切ってそのままにする人、などたくさんいます。この映画の結末では、自分のために生きることと同時に自分の部分が狭い人も肯定することになるのではないかと、そう思います。

 

こんな感じですかね、なんか途中から自分の考えだけつらつら書いてて、感想になってるのか不安ですが。ここまで読んでいただきありがとうございます。